2019年


ーーー11/5−−− 炎を操る生活


 
現代では、炎を見ない生活が増えているようだ。台所はIH調理器、暖房はエアコン、明かりはもちろん電灯。灯油やガスを使うストーブやボイラーも、火は器具の奥の方で燃えているだけで、メラメラとした炎を見ることはない。昔は路地で焚き火という風景もあったが、今では環境にやかましい住人などがいて、迷惑行為だと文句を言われる。都会を離れた田舎でさえ、炎を身近に感じる事は少なくなった。

 私が子供の頃、父が炭鉱会社に勤めていたので、我が家はストーブも風呂釜も石炭焚きだった。社員は、格安で石炭を入手できたのである。社員住宅の敷地の隅には、石炭置き場があった。石炭を積んだトラックがやって来るたびに、黒々とした小山が盛り上がった。

 風呂を焚くのは、私の役目だった。灯油やガスと違って、石炭はマッチで直ぐに火が付けられるわけではない。丸めた新聞紙に火を付け、薪を燃やし、それから石炭に火を移すのである。石炭焚きの炉にはロストルが付いていた。その上に石炭を乗せ、下で薪を燃やして石炭に火を付けるという手順。その一連の作業を、子供の私がやった。石炭は大量の灰が出る。火を起こす前に、前日の灰を炉からかき出し、灰置き場まで持って行く作業もやらねばならなかった。

 石炭を燃やして湯を沸かすだけなら、比較的簡単なことである。それに対して、燃焼を調節して、湯の温度を適度に保つというのは、なかなか難しい。熱過ぎれば、水を入れてうめれば良いが、ぬるくなったらまた焚かねばならない。石炭は火力の上げ下げが直ぐにはできないので、厄介だ。湯船に入った家族から「ぬるいよ!」と大声で叫ばれ、あわてて風呂釜の焚口に向かうなどということもあった。

 夕暮れ時、辺りの家の煙突から風呂の煙突の煙が上がるのが、日常の光景だった。私の記憶では、家に風呂を借りに来た人はいなかったが、それより少し前の時代では、隣の家の風呂を借りるというようなことも、普通に行われていたようである。現代では、他人の家族に風呂を使わせるなどということは、まずありえない事だろう。プライベートを越えて助け合うという美徳は、貧しい時代ならではの事だったのかも知れない。

 小さい頃から火を使う作業をしてきたので、今でも火を起こすのは好きだし、火を見ると気持ちが落ち着くような気がする。とはいえ、火を上手く起こすのは、なかなか難しい。秋も深まり、朝薪ストーブに火を入れる日が増えてきた。良い焚き木ばかりを選んで使えば、順調に焚き上がることもあるが、薪もいろいろである。首をかしげながら、何度も点火を試みて、ようやく火が落ち着くこともある。こういう手間がかからない、文明の利器に支えられた、現代生活は便利だろう。しかし、工夫を要する作業の楽しみと達成感という点では、炎を操る生活スタイルも悪くはない。




ーーー11/12ーーー 災害ボランティアに参加


 11月の5、7日の二日間、台風19号で被災した長野市へボランティアに出掛けた。災害ボランティアの活動をするのは初めてなので、いろいろな意味で意義深い経験となった。その顛末を述べてみたい。

 台風に襲われてから、既に三週間ほど経っていたが、連日ニュースで被害状況が報道されていた。それを目にするうちに、ボランティアへ行く気が沸いた。

 災害ボランティアに出掛ける際には、まず住んでいる地域の社協(社会福祉協議会)に連絡を取るのが良いと、以前聞いたことがあった。そこで、社協へ電話をした。押さえなければならないポイントは、ボランティア保険と、高速道路の無料手続きだと言われた。それらはネットでも可能だとのことだったが、会って話を聞いた方が良いと思い、出掛けて行った。

 社協の事務所で、ボタンティア保険の申し込みをし、高速道の料金が無料になる「ボランティア車両証明書」の用紙を貰い、使い方を教わった。長野市のサイトで、軽トラを使って廃棄物の運搬をするボランティアを求めているとの情報があったので、その話をしたら、穂保地区の「りんごサテライト」というボランティアセンターを勧められた。それが11月1日。

 週末の連休が明けた5日、7時半に自宅を出て、高速に乗り、長野市へ向かった。車窓から眺めた千曲川は、河川敷の樹木の高いところに枯れ草が絡みついていて、増水時の水位を示していた。9時過ぎに「りんごサテライト」に着いた。道端に、泥にまみれたりんごが、多数転がっていた。広場には、既に数十名のボランティアが集まっていた。そこで受付を済ませ、活動内容の説明を受けた。私は豊野サテライトに移動し、そこで具体的な指示を仰ぐように言われた。

 豊野サテライトで担当者から紙を渡され、このお宅に行くようにと言われた。紙はボランティア要請の申し込み書で、依頼者の氏名住所などが書かれていた。それに地図が添付されており、担当者が道順を教えてくれた。

 さっそくそのお宅へ出向いた。市街地を軽トラで走る。一見したところ、被災地と言う雰囲気ではない。普通の生活が営まれているように見えた。しかし、時折目に付いた光景に、ギョッとした。窓が開け放たれた家の中に見えたのは、家財道具が何も無い部屋、床や畳がはがされ、床下の部材が露出している部屋、屋根まで泥に覆われた車が停まっているガレージ等々。

 目指すお宅に着いた。近くで作業をしていた人に「こちらは○○さんのお宅ですか?」と聞いたら、「私はここの住人ではないので、分かりません。岡山県の真備町から来ました。あの時の水害では助けて貰ったので」と返した。

  表札で目的のお宅に間違いないことを確認した。住人はおらず、ボランティア宛に作業を依頼する張り紙があった。作業内容は、ビニール袋や土嚢袋に詰められた断熱材や石膏ボードの残骸およそ70個を撤去すること。持参したコンパネを軽トラの二台の側に立て、その間に廃棄物の袋をドサドサと積む。かなりの重量になるので、軽トラの耐荷重が心配になる。ビクビクしながら積み込み、集積場のある赤沼公園に向かった。

 いつもは滅多に使わないスマホのカーナビを、今回は活用することした。事前に、運転席のダッシュボードにスマホをセットできるように、スタンドを自作した。カーナビはまことに正解だった。道路がいたるところで通行止めになっているので、地図を見ながらの運転では迷ってしまうからだ。カーナビなら、進路を変えても、そのたびごとにフォローしてくれて、間違いなく目的地に着ける。

 赤沼公園に着いた。路上のガードマンの誘導に従って進み、集積場に入った。ものすごい量の廃棄物の山があった。そこに降ろし、またお宅へ戻った。途中、北陸新幹線の高架をくぐった。後で調べたら、このすぐそばに水没した車両基地があった。

 一件目が終わり、ボランティアセンターに戻って次の指示を受けた。こんども市街地のお宅だった。着いてみると、年配のご夫婦がおられた。庭に出された家財道具や床板の廃材を撤去する作業を行った。庭先から室内を見ると、床がはがされて、格子状の床下部材が見えた。どれくらいまで水に浸かったのかと質問したら、床上160センチだと言われた。このお宅は、敷地が道路より1メートルちょっと高くなっている。だから、道路からの水位は3メートル近くなったとのことだった。閑静な住宅地が、3メートルの深さの濁流に覆われた光景は、想像できなかった。奥様は、二階の窓から救助のボートに乗り移ったと言った。

 このお宅の廃棄物撤去も、集積場まで二往復で片が付いた。この日は二件だけで時間切れとなった。ボランティアセンターに戻り、高速道路の通行証にハンコを貰い、荷運びの回数を報告して、帰路に着いた。

 7日もまず「りんごサテライト」に入った。前日と同じ地区の、同じ作業を予想したが、違う指示を受けた。津野地区の廃棄物置き場から、赤沼公園へ運ぶという任務だった。そこは、千曲川の決壊ポイントのすぐそばの地域である。

 廃棄物置き場には、そのエリアで出たゴミが山積みになっている。ゴミと言っても、袋に詰められて整然と積まれているわけではない。泥にまみれてグチャグチャになり、乾いて固まったような状態である。それを手作業でほぐして、少しずつ軽トラに乗せる。軽トラが何台もかかり、入れ替わりで集積場まで往復をする。

 この積み込み作業はきつかった。中には異常に重い物体もある。特に畳がひどかった。濡れた畳の重さは、想像以上だった。近くで作業をしていた男性に声をかけたが、二人では手に余ったので、結局4人がかりで数枚の畳を積んだ。またもや軽トラの耐荷重が心配になった。

 赤沼公園のアプローチには軽トラの列ができた。この日は前日(5日)よりも軽トラの数が多く、順番待ちが長かった。廃棄物の山には、いろいろなものがあった。タイヤの山、冷蔵庫の山、畳の山、木材の山、そして混合ゴミの山。混合ゴミの山には、実に様々の物体が寄せられている。変わったところでは、ピアノやヨットなどもあった。

 この日は、6回往復した。朝見た時は絶望的な気持ちになった廃棄物置き場の山だったが、午後3時頃には三分の一くらいに減っていた。人海戦術もなかなかのものである。

 このエリアは決壊ポイントに近いので、特に被害が大きいように見受けられた。濁流の通り道になったのだろうか、何軒分もの区画がまっ平らになっていて、家の土台のコンクリートだけが残っている空き地。屋根が地面まで落ちている家。倒れたブロック塀。傾いた電柱。そして、各家から運び出された泥が道端に積んであり、そこでスコップを振るったり、一輪車を押したりするボランティア集団。りんご畑は、樹の高いところまで泥が付いており、根元は流れ込んだ泥でぶ厚く覆われていた。

 作業が終わり、ボランティアセンターへ戻る途上、車の窓から決壊現場が見えた。報道陣や行政関係者とおぼしき人々が多数動いていて、いまだに騒然とした雰囲気が感じられた。

 ボランティアセンターでチェックアウトして、帰路に着いた。この日の作業は、なかなか辛いものがあった。肉体的な厳しさもあったが、心理的な辛さもあった。前回はご家庭から廃棄物を運び出したので、お礼やねぎらいの言葉を受け取ることができた。この日は、黙々と作業をするだけで、何ら評価されることも無い。言わば、相手の顔が見えない作業。しかも、作業の内容がこういうものだから、徒労感も激しく、無力や孤独の感情に襲われた。それにじっと耐えて、現場と集積場を往復した。

 しかし、高速道に軽トラを走らせながら、気持ちは何のわだかまりも無く、落ち着いて穏やかだった。これで良いのだと思った。被災地で暮らしている人々の困難に比べれば、私の徒労感など取るに足らないものである。家に戻れば、暖かい風呂と、食事と、布団が待っている。被災地の出来事は私に、自然災害の恐ろしさを知らしめ、それと同時に現在の自分の境遇の幸運を気付かせてくれた。これからも一日一日を大切にし、高慢に陥ることなく、謙虚に、そして誠実に暮らさなければいけないと、気持ちを新たにした。

 翌日は、軽トラの荷台にこびりついた泥と、その中に紛れ込んだガラスの破片を掃除するという作業が待っていた。




ーーー11/19−−− マツタケ不作


 
今シーズンのマツタケ山は、大いに期待を持って望んだ。8月にまとまった雨が降ったので、県内のオーソリティーも「このまま順調に推移すれば豊作となるだろう」とのコメントを発していた。しかしてその結果は・・・

 私個人としては、9月14日から10月27日までの間20回山に入り、延べ50時間近くをマツタケ探しに費やした。そのうちの何日かは、早朝3時に出動した。そのような努力の結果、ゲットできたのはたったの4本。

 共に活動している「有明まつたけ研究会」としても、収穫はわずか17本。この中に私の4本も含まれている。会員は、個人的にゲットしたマツタケも、全て会に届けることになっている。私が未明から山に入ったのは、会員に対して抜けがけをするためではない。この山は、事情があって、特定の部外者も入り込んでいる。その先を越して山に入り、マツタケ発生の実態を調べるためである。

 収穫があったエリアは、いずれも標高680から750メートルくらいの、山の下の方だった。大いに収穫が期待された標高800メートルから上のエリアは、全く収穫が無かった。これは驚きの出来事であり、失望の事実であった。

 県内の情報によると、今年はどこも不作で、例年の十分の一程度の収穫だと言われている。

 我々の山も、気候の影響で不作だったと思う。穂高地域のデータを調べると、まず、残暑が厳しかった。9月の夏日(25℃以上)の日数は、昨年の1.5倍であった。そして雨が少なかった。9月の降水量は、昨年の十分の一以下であった。気温が高く、雨が少ない状況では、マツタケは発生しないのである。

 ことほど左様に、マツタケというものは、気候に左右されるものなのである。そして、気候が良ければ何処にでも出るというものでもない。アカマツ林を、適切に整備することによって、ようやく発生するものなのである。しかしその整備をやり過ぎたりして誤れば、また出ない。つまり、マツイタケ発生のメカニズムは、とても難しいのである。専門に研究をしている人でも、その難しさは素直に認めざるを得ないと言う。

 我が会がマツタケ山の整備を始めて、6年目に入った。一般論としては、整備をして3から5年で成果が出始めると言う。残念ながら、我々の山では、いまだそのような動きは無い。

 マツイタケ採りを長年近く続けている人の話では、30年の間に満足のいった年は10回程度しか無かったと言う。つまり打率3割程度ということだ。その3割の可能性にかけて、春先から毎週のように山に入り、整備を続けている我々である。まるで徒労のように見える活動かも知れない。しかし、山をこのまま放って置けば、荒れるのは必定。過去にはいくらでも採れたというマツタケが、次第に数を減らしており、先細りするのは目に見えている。山の手入れをして、自然から頂く恵みをなんとか次の世代につなぎたいというのが、我々の活動である。

 くだんのマツタケ採りの名人は言った 「なにはともあれ、マツタケを採るというのは、奥が深くて難しい。ひとことで言うなら、ロマンなんだよ」




ーーー11/26−−− 失望の図書館


 地域の図書館の蔵書の中に、私の本がある。その本の置き場が、どうも気になる。「製造技術」というジャンルの書架に置いてあるのだ。あの本を読んだことがある人なら同意して貰えるだろうが、そのジャンルではピンと来ない。

 あるとき、職員にそのことを告げた。自分はこの本の著者だが、置いてある場所が相応しくないと。若い女性の職員は、「ご著者でらっしゃいますか」と緊張した面持ちになり、「上司を呼んでまいります」と言って事務室の方へ去った。

 事務員に伴われてやって来たのは、中年の女性司書だった。私は、「本の内容は、木と木工に関するエッセイで、製造技術などという硬いジャンルはそぐわない。読者としては、手工芸や木と人の関わりなどに関心がある人を想定している。そういう読者の目に触れさせるためには、相応しいジャンルの書架に移動すべきだ」と言った。すると司書は「蔵書のジャンルは、出版社が指定したコードによって分類することになっています。ご著書もそのような手順に従って処理されていたと思います」と言った。

 そのようなことはネットで調べて知っている。それはあくまでガイドラインであり、それから外れてはいけないというものではない。本の内容を判断し、図書館が独自の判断で、より相応しいジャンルに分類するということは、普通に行われている事である。そのように説明をして、再考をうながした。すると司書は「担当部署で検討させて頂きますが、ご希望に添えない場合もありますので、ご了承下さい」と答えた。

 その後、図書館に行くたびにチェックをしているが、置き場は変わっていない。私の申し出は無視された形である。

 大量の蔵書全てに目を通し、細かく分類を検討することは難しいだろう。出版社のコードに従って処理をするというのは、一般論としては妥当な方法だと思う。しかし、本を読んだ利用者から、ましてや本を書いた本人からアドバイスが有ったなら、それに沿った方向で見直しても良いのではないか。

 この図書館では、別件でもがっかりしたことがある。

 ある交響曲のCDを借りた。ジャケットには、指揮者の顔写真がアップで写っていた。その顔の上に、図書館の蔵書シールがベッタリと貼ってあった。あまりの不躾なやり方にギョッとした。通常はその位置に貼るのだろうが、少々ずらしたところで問題は無かろう。クレームしようかとも思ったが、大人に向かってこのような事を言うのに嫌気がさし、やめた。

 血の通わない事務処理、市民感覚とのずれ、そして文化の向上に対する使命感の欠如、旧い言い方をするならば、お役所仕事の図書館なのである。